歌人ガイドと歩く、隠岐神社と和歌の世界
「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
私は、新しくこの島の守り神となった者である。隠岐の海の荒い波風よ、私が来たからには、もっと心して穏やかに吹くがよい。この歌は、鎌倉時代、承久の乱に敗れて隠岐へ配流となった後鳥羽上皇が、島へ渡る船上で詠んだとされる一首だ。
上皇らしい力強さと威厳に満ちた歌いぶり。しかしその裏には、都を追われ、絶海の孤島へと向かう孤独と、深い悲しみが滲んでいるようにも感じられる。伝承によれば、御船が島に到着する直前、海が大しけとなった。しかし、後鳥羽上皇がこの歌を詠み上げると、たちまち嵐は静まり、波は穏やかになったという。この歌は今もなお、島民の人々にとって特別な歌であり、大切に語り継がれている。
そんな数々の伝承が今なお息づく隠岐諸島・中ノ島、海士町。島の中心に鎮座する隠岐神社は、承久の乱に敗れ、この地で十九年を過ごした後鳥羽上皇を祀る神社である。
境内に一歩入ると、潮の匂いがわずかに薄まり、空気がすっと澄む。季節は秋。紅葉が鮮やかに色づき、頬に触れる風が、冬の気配がすぐそこまで来ていることを静かに知らせてくれる。

隠岐神社の鳥居のそばにある「株式会社 隠岐桜風舎」で、ガイドの榊原さんが柔らかな笑顔で迎えてくれた。榊原さんは、単なる歴史解説のガイドではない。榊原さんには、「有泉(ユウセン)」という歌人としての顔がある。ガイドとして働く傍ら、自身もまた、言葉を紡ぐ表現者だ。過去には、「隠岐後鳥羽院大賞」という、全国から和歌・短歌・俳句を募集する大会の事務局も担い、各地で「うた」を紡ぐ人々と、この島とをつなぐ活動を続けてきた。
今回の取材では、榊原さんに隠岐神社の周辺を案内してもらい、後鳥羽上皇の残した和歌をめぐる旅へと連れて行ってもらうことになった。
「海士町のあちこちには、和歌が刻まれた石碑や看板があります。旅をしながら、自然に後鳥羽上皇の和歌に触れられる場所がたくさんあるんですよ」
そう言って手渡されたガイドブックを合図に、榊原さんの案内が始まった。「うた」の誕生した時代背景から和歌と短歌の違い、詠み方と楽しみ方まで。知識の有無にかかわらず、聞き手が置き去りにならないよう、こちらの理解に寄り添いながら、ひとつひとつ言葉をほどいていく。

「和歌も短歌も、五・七・五・七・七の三十一音で表します。和歌は千年以上続く、この国の古い詩のかたちで、基本は『やまとことば』を用います。今の春夏秋冬よりもっと細やかな『二十四節気』という古代中国でつくられた暦に合わせて、その季節ならではの決まった言葉が使われたりしますね。
一方、短歌…いわゆる『現代短歌』は明治時代以降に詠まれるようになったもの。同じ三十一音の詩のかたちですが、もっと自由です。英語やカタカナなどの外来語を使っても構いません。厳格な決まりがある和歌とは違って、私たちがふだん使っている言葉のままで、今の自分の感情や個性をそのまま表現できるところが魅力ですね」
榊原さんは、このツアーを通して、一緒に景色を眺め、和歌を解説し、最後には参加者自身が歌を詠めるような体験を作りたいと話す。「歌なんて作ったことがない」という方でも心配はいらない。上手く詠めるかどうかより、まずは楽しむこと。榊原さんのガイドは、その姿勢を何より大事にしている。

参道の砂利を踏みしめながら、話題は再び後鳥羽上皇へと戻る。後鳥羽上皇は、文武両道に秀で、多芸多才。中でも和歌の才能は傑出しており、「新古今和歌集」の編纂を命じたことでも知られる。「万葉集」「古今和歌集」と並び、和歌の世界を支える三大集のひとつとされてきた歌集だ。和歌の道に深く通じていた後鳥羽上皇は、配流先となった海士町でも、「遠島百首」をはじめ、数多くの和歌を詠んでいる。四季の移ろいに目を留め、ときにはその美しさを、ときには都への想いを重ねながら、三十一音の中に、この地で過ごした日々を閉じ込めた。
隠岐神社の周辺には、上皇ゆかりの場所が静かに点在する。住まいとされた寺の跡地。歌に詠み込まれた勝田池。当時の後鳥羽上皇がどのような想いで過ごされていたのだろうか。京の都から遠く離れたこの島で、何を見て、何を思い、どんな空を見上げて歌を詠んだのだろう。そんな想像が、秋の冷えた空気と一緒に胸へ入ってくる。歴史とは、教科書の中の出来事ではなく、誰かが確かにここで呼吸し、暮らしていた時間の集積なのだと気づかされる。

和歌を手がかりに、島の魅力を丁寧に語る榊原さん。けれど、その眼差しが最初からこの島に向いていたわけではないという。
大学進学を機に島を離れ、向かったのは奈良。国文学を学び、文学の世界に深く触れた。卒業後は海士町へ戻り、「海士町後鳥羽院資料館」のスタッフとして館内の案内に携わる。資料館には、後鳥羽上皇や隠岐神社にまつわる史料が展示されており、榊原さんは今もその案内役を務めているそうだ。
やがて資料館の管理運営を株式会社隠岐桜風舎が担うことになり、榊原さんも同社へ移籍。隠岐神社周辺のガイドも兼ねるようになる。資料館に関わり始めてから、もう二十年以上が経つが、榊原さんは当時の正直な気持ちを隠さない。
「戻ってきた当時は、正直、あまり地元のことが好きじゃなかったんです」
外の世界を知ってしまったからか、この島の静けさは、ときに退屈に見えたのかもしれない。転機となったのは、仕事を通じて後鳥羽上皇の和歌に深く触れるようになってからだった。歌を解説するために言葉を追い、背景をたどり、季節の気配に耳を澄ませているうちに、ふと景色が違って見え始めたという。
「後鳥羽上皇の和歌を通して見るこの島が、すごく美しかったんです。秋の露がきらきらしている感じとか、春は霞で向こうの島が淡く見える景色とか。ああ、この風景は昔から変わらず綺麗だったんだ、って教えられた気がしました」

見過ごしていた風景の中に、800年前の後鳥羽上皇が見出した“美”が、確かに息をひそめていた。変わったのは景色ではなく、見る側の視点のほうだったのだ。
そして、和歌を好きになった理由には、もうひとつ大きな背景がある。かつて榊原さんは、S N S上で小説を書いていた時期がある。
「昔から小説を読むのが好きで、自分でも小説を書いてはSNSに投稿していました。思いのほか反響があり、気に入ってくださった読者の方から感想が届いたり、『次回作を待っています』という声をいただくようになったんです。でも、それは大きな喜びであると同時に、次はもっと良いものを書かなければという重圧にもなっていきました」
物語を紡ぐことは、マラソンのように長い道のりだ。構成に悩み、言葉を選び、数万字を費やしてもなお、納得のいく結末に辿り着けない苦しみ。スランプに陥った榊原さんは、ある時ペンを置き、アカウントを削除した。そんな榊原さんの救いが、短歌だったという。
「長い物語を完結させるのって、苦しい時があるんです。でも短歌は五・七・五・七・七。わずか三十一音。短歌には、『完成しない』ということがないんですよね。どんなに拙くても、どんなに小さな感情でも、三十一音におさめれば、その瞬間にひとつの作品として形になります」

そんな経験があるからこそ、榊原さんは「歌を詠む」という行為を、むやみに高尚なものにはしない。言葉は、無理やりひねり出すものではなく、ときに景色のほうからそっと差し出されるものだという。だから、あまり考え込みすぎなくていい。目の前の自然と、歴史の気配が残る場所にただ立って、心がほんの少しだけ動いたその瞬間を、三十一音にすくい上げてみればいいのだと。
歴史と豊かな自然が息づく海士町で、心のままに言葉を紡ぐ旅に出てみませんか。あなたの一歩を、海士の風がそっと後押ししてくれるはずです。
【My Favorite】

菱浦港からほど近い、この島で唯一の信号機のあるY字路のあたり。決して有名な観光名所ではありませんが、私はこのひっそりとした湾の岸辺が大好きです。ここに来ると、「遠島百首」の第三十二番の歌が鮮やかに浮かんでくるからです。
夕すずみあしの葉みだれよる浪にほたるかずそふあまのいさり火
(夕涼みをして眺めていると、寄せる波に岸辺の葦の葉が乱れ、その葦に止まっている蛍の数が増してくる。またそのように、沖には漁火の数も多くなっていく)
今は埋め立てられた場所も多いですが、昔はもっと海が近く、葦原が広がっていたのでしょう。800年前の後鳥羽上皇と同じ景色を見ているような、不思議な感覚になれる場所です。
