「宿命」に導かれ、再びこの地へ。隠岐神社を愛する語り部
後鳥羽上皇の名が色濃く残る町、海士町。島の中心にある隠岐神社は、旅行客が必ず立ち寄る定番スポットだ。だたし、ここは単なる観光名所ではない。承久の乱ののち、この島へ配流となり、19年もの歳月を過ごした後鳥羽上皇。彼が都を想い、歌を詠み、そしてこの地で崩御されたという、800年前の記憶が今も鮮烈に息づく場所である。
一歩、境内に足を踏み入れれば、そこには凛とした静寂がある。参道の奥へと進むにつれ、空気がすっと澄み渡り、訪れる者の背筋が自然と伸びる。
そんな歴史の重厚さ漂う場所を、まるで自宅の庭に客人を招くかのような、柔らかな笑顔で案内する女性がいる。隠岐桜風舎のガイド、小澤さんだ。小澤さんのガイドは決して堅苦しくない。専門用語を並べ立てるのではなく、訪れる人の表情を読み取り、その瞬間の空気感を大切にする。

「私は歴史学者でもなければ、植物の専門家でもありません。私の得意分野は『人』なんです。限られた時間の中で、どうすればお客様に楽しんでいただけるか。この場所の記憶を、どうやって楽しい思い出として持ち帰っていただくか。そこを一番大切にしています」
ガイドの冒頭、小澤さんはお客様を“ヒアリング”することから始めるという。その場の空気を瞬時に読み取り、その人にとってのベストな距離感を探り当てる。反応を見ながら、言葉を足したり引いたり。写真を撮りたそうな瞬間には静かに待ち、物語を求めている方には言葉を返す。挨拶の仕方も、話の順番も、二度と同じガイドはないという。
「ツアーガイドはどうしても時間が限られ、効率が求められます。歴史を深く知りたいのか、後鳥羽上皇の短歌に触れたいのか、それとも今の島民の暮らしぶりを知りたいのか。お客様のリクエストに合わせて、案内する内容を柔軟に変えていくんです」
そう語る小澤さんの背中を追って、木漏れ日の落ちる参道を歩く。最初に案内された場所は、後鳥羽天皇御火葬塚。この島で生涯を閉じた後鳥羽上皇の遺骨の大部分が納められているという聖域だ。俗世とは切り離されたような、ここだけ時間が止まったかのような静けさを感じる。

「明治6年、明治天皇の命によって大阪の水無瀬神宮に合祀されましたが、御遺骨そのものは今も変わらず、ここに眠っておられます。そしてこの場所は、村上家と呼ばれる一族が代々、宮内庁の任命を受けて墓守となり、御霊を守り続けてきました。当主は代々“助九郎”を襲名し、現在のご当主で48代目になります」
800年もの間、絶えることなく守り続けている人がいる。この物語をこうして後世へ語り継ぐ小澤さん自身もまた、村上家と同じく、800年の時を超えて後鳥羽上皇を静かに想い続ける1人なのだ。
その余韻に浸りながらふと見上げれば、季節は秋。境内にあるイチョウが、鮮やかな黄金色に染まり、風が吹くたびに金色の雨を降らせている。足元に広がる黄金の絨毯を踏みしめながら、小澤さんが微笑む。
「綺麗な色でしょう? ここは四季折々の表情が本当に美しいんです」
隠岐神社は、季節の移ろいがそのまま風景の表情になる場所だ。春は桜が華やぎ、夏は深い緑に沈み、秋は金色に燃え、冬は雪に包まれる。後鳥羽上皇もまた、この島の四季の中に、都への思慕や無常を感じていたのだろうか。

季節の彩りを楽しみながら、改めて立派な社殿へと足を進める。800年前の物語が息づく場所だけに、この建物もさぞ古いものなのだろうと思いきや、小澤さんは意外な事実を教えてくれた。
「実はこの神社、昭和14年(1939年)に建てられたもので、神社としては比較的新しいんです。社殿は“隠岐造り”と呼ばれる、隠岐の伝統的な建築様式で造られていて、後鳥羽上皇が亡くなられて700年の節目に合わせて造営されました。それまでは、ここ一面が田んぼだった場所なんですよ」
後鳥羽上皇がこの島で崩御されてから700年もの間、島の人々が片時もその存在を忘れることなく、慕い続けてきたのだろう。目の前の壮麗な社殿は、神様として崇める畏敬の念というよりも、もっと温かくて切ない、島民たちの“後鳥羽上皇への想い”そのものが形になった姿なのかもしれない。今では、島民たちから親しみもこめて「ごとばんさん」と呼ばれているそうだ。

小澤さんが隠岐神社周辺のガイドに情熱を注ぐのには、単なる職業選択以上の、ある不思議な“縁”があるそうだ。
小澤さんは海士町出身。高校卒業後は「メイクアップアーティストになりたい」と島を出て、化粧品会社に就職した。けれど家庭の事情もあり、20歳になる頃にUターンすることになる。
転機は20代前半。地元のタクシー・バス会社「海士交通」の方に声をかけられ、未経験のままバスガイドに挑戦した。
「近所の方が職場まで来て、4月からガイドが足りないから、あんたやりなさいって。1ヶ月後デビューの無茶ぶりでした。実践練習がないからと、休憩中の運転手さんが、お客さんもいないのにバスを走らせてくれて、そこで練習したこともありましたね」
手探りのスタートだったが、持ち前の会話力で仕事は次第に面白くなっていった。その後、小澤さんは愛知県へ移り、約20年島を離れて暮らす。再び海士町に戻ってきたきっかけは、コロナ禍と、息子の小学校入学が重なったことだった。
フェリーから降り立った瞬間、小澤さんの目に飛び込んできたのは、20年前と何ひとつ変わらない島の景色だったという。人は入れ替わり、時代は変わっていくのに、この島の自然だけは、何ひとつ急がない。

そして帰島からほどなくして、小澤さんは再び“人を案内する仕事”へと引き寄せられていく。隠岐桜風舎のもとで、観光ガイドに従事することになったのだ。
「私が帰ってきてガイドをすることになった時、家族から言われたんです。『それはあなたの宿命だ』って」
その“宿命”の意味を、あとからゆっくり理解した。実は、小澤さんの実家は隠岐神社のすぐそば。幼い頃から神社の境内は遊び場であり、日常の一部だった。そしてその場所に家を構えたのは、偶然ではない。小澤さんの祖父は後鳥羽上皇の歴史をこよなく愛し、当時の町長に直談判して名前を拝借し、「後鳥羽荘」という名の民宿を神社のそばに建てた人物だったのだ。そして、母は民宿の傍ら、三休という名のスナックも営み、40年以上も島の人々や旅人の憩いの場を守り続けてきた。
「祖父が愛し、母が守ってきたこの場所で、今度は私がその魅力を伝える役割を担うことになった。ああ、これは導かれているんだな、と腑に落ちました。20年ぶりに自分の意思で『戻ってきた』というよりは、この土地に『戻された』という感覚に近いかもしれませんね。ガイドとして隠岐神社を案内していますが、仕事というより『自分の家族の物語や幼少期の記憶』を語るようなものなんです」

小澤さんには、密かな夢がある。それは、現在は休館している民宿を復活させ、「人が集い、泊まり、語らえる場所」にすることだ。 ガイドとして案内し、夜はその日の旅の思い出を語り合いながら杯を交わし、隠岐神社のすぐそばで寝泊まりをする。そんなおもてなしができる日を夢見ている。
かつて境内を走り回っていた少女は、時を経て、この地の物語を紡ぐ語り部となった。何気ない日常の記憶のすべてが、ガイドの深みとなっている。変わらない景色の中で、変わり続ける人の営み。小澤さんの案内で隠岐神社を巡れば、ガイドブックには載っていない隠岐を感じることができるはずだ。
My Favoriteー隠岐神社外苑

私がいちばん好きな場所は、隠岐神社の外苑って呼ばれている広場なんです。実家がすぐそばだったので、子どもの頃はここが毎日の遊び場でした。
ここ、春は桜がすごくて、ソメイヨシノを中心に250本ほど桜が植えられているんです。20年間島を離れていた時期があるんですけど、それでもこの場所の桜の美しさだけは一度も忘れたことがありません。それにこの場所は、桜を見るだけの場所じゃなくて、島の行事の舞台にもなるんです。隠岐の牛突きだったり、盆踊りだったり、綱引きだったり。人が集まって、声が重なって、島の時間がちゃんと動く場所。そういう日があるからこそ、「ここは島にとって大事な場所なんだな」って、子どもながらに感じていました。
大人になった今でも、朝も昼も晩も、私はこの場所を通ります。でも不思議で、通るたびに違う表情を見せてくれるんです。晴れの日と雨の日で全然違うし、季節が変わると空気の匂いまで変わる。私にとって外苑は、原風景で、いつでも童心に帰れる大切な場所なんです。
