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はじめての隠岐
スポット
グルメ
名垣(みょうがき)
火山島で水田に適した土地が少なかった隠岐諸島。そのため島民は山にも牛馬を放牧し土地を肥えさせて、米以外の穀物を、連作障害を防ぐため順番に耕作しました。知夫里島では島の半分の面積を「牧畑」にし、火山岩…
文覚上人の墓
正治2年(西暦1200年)知夫里島に遠流となった文覚上人。その後西ノ島の文覚の岩屋で修行をしていましたが、没後は知夫里島に住んでいた、友人で武士の安藤帯刀が亡骸を引き取り、この地に墓を建てたと言われていま…
黒木御所阯・碧風館
元弘2年(1333年)に隠岐へ御配流となった後醍醐天皇が脱出までの1年余りを過ごされた行在所と伝えられています。 敷地内には後醍醐天皇にまつわる資料館「碧風館」があります。
後鳥羽上皇行在所跡
かつて源福寺というお寺が在った場所であり、後鳥羽天皇は仮御所として 配流されてから崩御されるまでの19年という年月をここで過ごされました。 ”我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け” という有名な句以…
後鳥羽天皇御火葬塚
木々の緑と静けさに囲まれて佇む鳥居。 後鳥羽天皇が崩御された後、ご遺体はこの地で荼毘に付されました。 遺骨の大部分は今の御火葬塚に納められましたが、明治6年に明治天皇により大阪の水無瀬神宮に合祀されま…
天川の水(清水寺)
高僧行基が隠岐行脚でこの地を訪れた時、この水を天川(天恵の水)と名付けたのが由来だとされています。
西ノ島ふるさと館
故木村康信氏が隠岐近辺で採取した『木村コレクション』は貴重な生物資料として高い評価を受けています。 山本幡男資料室にある遺書に目を通せば、現代の日本人が失いかけている道義・誠心・まごころといった日本人…
船引運河
内海と外海を結び、漁業をはじめとする島の産業と島民生活を支え続けています。 船引運河ができる前は、内海から外海へ出るために船を陸に引っ張り上げて越していたことから「船越」という地名が付いたと言われてい…
八雲広場
明治の文豪 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治25年(1892年)、菱浦湾の畔にあった岡崎旅館に滞在しました。 隠岐のなかでも菱浦を最も気に入った八雲は、ここに8日間も滞在し、その時の様子を著作「知られざ…